人間、夜咄頼麦の半生。

はじめまして、夜咄頼麦と申します。

このページを開いてくれてありがとう。

まずは、僕のことを簡単に紹介させていただきます。

普段は書き手と読み手をやっておりまして、主にYouTubeで発信活動をしております。

大学院進学直前で大学を中退し、試行錯誤を経て、平穏な田舎暮らしをしながら物語を編んでおります。

趣味は散歩、写真、日本酒、温泉、演技などです。

座右の銘は『わくわく楽しんで生きる』です。

あなたがこの文章を読み終える頃には、僕の浮き沈む半生の全てを知ることになります。

一人の異質な男が自分と世界を理解しようと努力し、一つ一つの悩みに対してその時なりの回答を出す様子を正直に書き記しました。

人間としての醜い一面、恥ずべき点も包み隠さず正直に書いておりますので、中には目を覆いたくなるような言葉もあるでしょう。

しかし、この文章は同じ時代のどこかで、似た状況にある誰かの支えになれるかも知れません。

それが、今日この文章を読んでくださる、あなたかも知れない。

今宵の夜咄は長くなるかも知れませんね。

それでは、語っていきましょう。

学生時代

生誕 

夜咄頼麦は1224日、愛知県半田市に生まれました。

3800gで、よく泣く元気な赤ちゃんだったそうです。

生まれた瞬間から、この世界に適応するために必死だったのかも知れません。

父方は京都で源氏の流れを汲む商才ある家系、母方は愛知で偉大な功績を残してきた教育者の家系でした。

生まれて直ぐに父方の住む京都府京都市に移り、高校時代までをこの地で過ごすことになります。

話し上手で優しい父と、器用で思いやりある母の間に生まれ、恵まれた赤子でした。

父にはたくさん話しかけられていた記憶、母には玩具入れの小物などを作ってもらった記憶があります。

愛に囲まれた、幸せな子どもでした。

父方の祖父には、歴史を知り、故きを温めることを、

父方の祖母には、自惚れず、常に自己を戒めることを、

母方の祖父には、人を愛し、約束を守ることを、

母方の祖母には、孤独をも恐れぬ好奇心で、世界を楽しむことを、

それぞれ学びました。

しかし、その気づきを得るのは、まだまだ先の話です。

無知で世間知らずだった僕には、数々の困難が待ち受けておりました。

剽軽 

4歳の頃には弟が生まれました。

僕とは対照的に、全然泣かない子だったようです。

この世界で生きることを、致し方ないことだと悟っていたのかも知れません。

突然現れた近しい存在に、僕は興味津々でした。

赤子のためのベッドを覗き込んでは、頬を爪で引っかかれる日々。

これは誇張表現ではなく、生傷が絶えない日々でした。

右手には彼につけられた傷が残っています。

おそらく、一生消えない傷です。

しかし、傷つけられても本能的に大切にしたい相手だと感じていたのでしょう。

今でも、彼とは仲が良いです。

この弟とのやり取り以外の生活は、まさに平穏そのものでした。

両親は底抜けに優しく、僕に愛を注いでくれました。

しかし、意にそぐわぬ事の起こりづらい至れり尽くせりの環境は、僕に断る勇気を与えてくれませんでした。

これは、その後二十年以上引きずる、重い足枷となります。

誰かに求められれば、おどけて笑いを取ろうとする道化。

歌に合わせて踊ったり、芸能人の真似事をしたり。

みんなが笑ってくれれば、自分は後回しでいい。

本気でそう思っていました。

しかし、ついに卒園式の日、園長先生にこう言われました。

「嫌なことは、嫌って言わなきゃだめだよ。」

この言葉がどう僕を救うことになったか語るには、もう少し話を進めなければなりません。

風見 

道化には次第に無理が出てきまして、小学生にあがる頃には、人の顔色を伺う姿勢だけが残りました。

学校の友人の言うことには逆らわず、班での学習も自分の意見は押し殺す。

これは家庭でも同じでした。

これは嫌ではなかったのですが、母親には勉学を詰め込まれました。

漢字検定、英語検定、通信教育に公文式。

書店で買った新しいテキストが毎日のように追加されました。

全てのノルマをこなすまで寝ることもできず、好きな遊びもできません。

友人との約束も、何度も反故にしました。

小学校高学年で初めて買い与えられたポケットモンスターは、勉強を終えた後に30分のみ。

こっそり遊んでしまった日には、家の外に出され、一人座り込んで泣いた記憶もあります。

今振り返っても、壮絶な小学生時代でした。

しかし、もちろん悪いことばかりではありません。

教育の一環で読み聞かされた数々の本との出逢いです。

母親の上手いところは、ちょうどいいところまで読み聞かせ「あとは自分で読みなさい」と放り出すところです。

続きの気になる僕は、本の虫になりました。

特に冒険ものの本を好み、小学校を卒業する頃には、学校の本も図書館の本も全て読み終えていました。

書いた読書感想文は、軒並み賞を取りました。

この勉学への姿勢は、中学生時代に引き継がれます。

勤勉 

中学生時代の僕はいわゆる優等生でした。

学年での成績は常にトップ、塾でも府内で一位争い。

難しいテストで満点を取り、一人だけ教壇上に呼ばれて手渡された記憶もあります。

おまけに運動神経も抜群。

全てがうまくいっていました。

成績を維持するため、学校生活では先生に気に入られることを第一に考え、模範生徒になり切ろうとしました。

ミスなく無難に過ごす、機械人間。

顔には能面のような無表情が張り付きました。

このような生徒は、度々いじめの対象になります。

不幸中の幸いか身長は大きかったため、身体的ないじめは少なかったです。

その分、言葉の暴力を沢山受けました。

目に毒ですので、その多くはここには書きません。

一つだけ書くとするならば、やんちゃな人間には陰キャラの王様と呼ばれました。

今でも陰キャラという言葉は苦手です。

しかし、負けじと勉学に励んだ甲斐あってか、僕は京都でも有数の進学校に推薦で合格します。

身内には神童現ると誉めそやされました。

しかし、この栄華は長く続きませんでした。

怠惰

僕には勉強しかありません。

新しい環境でも、自分が抜きん出ることを信じて疑いませんでした。

高校に入学して一年は、中学時代の勉強の貯蓄で乗り切ることができました。

模試では、京大、東大もSS判定です。

勉強をしなくとも、成績が落ちる気配はありません。

僕は天狗になりました。

しかし、慢心で努力を怠る人間が、追いつけ追い越せと必死で努力する人間に敵うはずもありません。

成績はみるみる下降線を辿り、入学時に上位だった校内順位も目に見えて下がっていきました。

高校二年になる頃には、成績は平均を下回りました。

苦手だった化学や数学IIICでは何度も赤点を取りました。

この頃には自尊心はへし折れ、僕は腐っていました。

神童なんていくらでも居た。

いや、生まれ持った才能なんて拠るべきものではなかった。

費やした時間と熱量が全てだ。

気づくに遅れた僕の志望校は、東大から京大、京大から阪大、阪大から神戸大、最終的には京都工芸繊維大学にまで下がりました。

下がったと言っても優秀な大学です。

僕は前期試験で見事に落ちました。

浪人も視野に入れた失意の中、担当の先生に「倍率は高いが、小論文と面接だけで合否決定する大学がある」と選択肢を提示され、僕は飛びつきました。

僕にはもう、文章しかない。

滑り止めでもいい。

京都から逃げ出したい。

結果、僕は倍率10倍を跳ね除け、後期試験トップで合格しました。

しかし、嬉しさなどはありません。

高校三年間の勉強とはなんだったのか。

結局、活かせたのは文章力だけではないか。

僕は大きな挫折を置き土産に、18年育った京都を後にしました。

建築

大学入学とともに、僕は愛知県名古屋市に引っ越しました。

母方の親戚も多く、生まれた半田の町にも足を運びやすい都市に狭いワンルームの部屋を借りました。

入学したのは建築学科です。

新入生への歓迎ムードを横目で見ながら「僕は遊びに大学に入った訳ではない」と冷めた目をしていました。

恥を忍んで正直に書きますが、高校時代の偏差値から遥かに下がる大学の同期を、どこか見下していた節がありました。

友人もつくらず、ひたすら学びに向かう日々。

図面をひいて模型を作ってプレゼンをして、図面をひいて模型を作ってプレゼンをして。

考えに考えた作品が酷評されたり、教授によって評価が全く違うだなんてことは日常茶飯事でした。

人間は一人一人、物事の捉え方、解釈の仕方が全く違う。

それでも僕はめげずに学び、あらゆる教えを結びつける力、ゼロからモノを作る力、人に伝える力を養い続けました。

大学二年の頃には周りの学生に指示を出し、企業や海外の大学に混じって設計案を発表して優秀賞を取ることもありました。

賞金の10万円はバイト代と、最終審査場だった東京の建築会館までの交通費として、手伝ってくれた皆と自分に分配しました。

その頃には、周囲の人間にもすっかり有望視されていました。

自信を取り戻しつつあった僕は、三つの研究室を転々として見定めた後、大学で最も厳しいと言われる研究室に入りました。

僕を鍛え直すには、ここしかない。

東京工業大学を出た教授の研究室で、厳し過ぎる環境に耐えかねて辞める学生が後を立たない修羅場です。

しかし、学びに飢えた僕にはとても刺激的で、本当に楽しい研究室でした。

知識も経験も豊富な教授、切れ者で尊敬に値する先輩、有能で高め合える同僚。

教授推薦の書籍を片端から読み漁っては、毎週のように研究室の同期や先輩方と議論を交わし、やり切った後は皆でお酒を飲む。

飲むと流暢に語り出す教授の話が大好きで、お酌をするうちに日本酒の味も覚えました。

ある日、世界中で評価される、教授の設計した住宅を見学させていただいた際、夜に溢れた生活の灯りに感動して泣く僕に、教授は言いました。

「生産性のない日々の繰り返しだし、お金だって儲からないけど、論理をどこまでも突き詰めた先に宿る誰かの幸せは尊い。こういう仕事なんだよ。建築ってなんなんだろうね」

不断の努力の末に宿る幸せ。

僕は嗚咽しました。

あれほど楽しかった研鑽の場は、生涯、もう経験することはできないでしょう。

僕は学会にも参加したことで、教授に憧れて大学教員の道を志し、大学院を受けました。

結果は主席合格。

漸くここまで這い上がってきた。

単位も全て取った。

卒業論文さえ出せば、大学院でもこの刺激的な研鑽を続けられる。

もう一度、やり直せる。

僕は全ての熱量をかけて、論文制作にあたりました。

そして、

過労で倒れました。

原点

脱線 

不意に頭の中が真っ白になりました。

脳が活動を停止してしまったかのように、目の前の画面を見つめても何も浮かびません。

あれ

次の文字を、言葉を

あともう少し

あともう少しで書き上がるんだ

どうして、何もできないんだ

僕は壊れた機械のように研究室の自分の席を立ち上がりました。

そして、気づいたら床に倒れていました。

高熱があるようです。

卒業論文の提出間際だから帰るわけにはいかない。

いや、それ以前に動けず、ただ倒れているしかない。

涙が溢れました。

そして、深夜だったために助けも無く、そのまま静かに意識を失いました。

 

朝。

 

僕は大学から忽然と姿を消しました。

Macbook Proも、論文の資料も、描いた未来も、何もかもを置き去りにして。

曖昧でよく覚えておりませんが、自転車を漕ぐことは危険と判断し、家まで歩いて帰った記憶があります。

散らかった部屋の敷きっぱなしの布団に倒れ込み、死んだように眠りました。

実に、数ヶ月ぶりの布団でした。

いつまで経っても熱は下がらず、食欲も失せました。

頭の中は常に倒錯状態です。

ここまで共に論文を磨き上げてくれた教授や先輩、同僚への申し訳なさ。

それどころではないと叫ぶ心と、思考の停止した頭が喧嘩します。

何も食べることはできず、食べても味を感じず、心身はみるみる衰弱しました。

体重は標準状態から-15kgまで落ち込みました。

水だけは飲まなければ死ぬと思った僕は、水を飲み続け、お腹を下しました。

五分に一度はお腹を下すため、布団とお手洗いを往復するしかありません。

当然、寝ることなどできません。

涙ばかりが溢れました。

意識が朦朧とします。

調子に乗ってごめんなさい。自分勝手でごめんなさい。書き上げられなくてごめんなさい。期待をしてくれた父さん、母さん、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

僕は、周りの目を気にして勝手に期待を背負い込んでいただけでした。

つまらぬ自尊心のために、好きなことも全然できなかった。

 

自責ばかりで死ぬなんて、くだらない人生だ

 

意識が薄れていきます。

 

せめて、好きなものに囲まれて死にたかったな…

 

………

 

……

 

 

そこに、電話がなりました。

母でした。

なんとか、手を伸ばして応答のボタンを押しました。

愛知県に遊びにいくのだけどと母の声。

言葉が出ませんでした。

異変を察した母は「すぐに行く」と言い、僕に病院に行くよう促しました。

病院では、車椅子で院内を運ばれ、点滴を三回連続で打ちました。

意識がはっきりするまでは、ひたすら天井を眺めていました。

診断結果は、急性胃腸炎、その他症状の併発でした。

四つの症状が重なっていました。

お世話になった精神科では、消耗性うつ状態と診断されました。

心身ともにボロボロだった訳です。

その後、家に帰り着いたところに母と祖母が到着し「何やってんの、あんた」と優しく叱られた記憶があります。

勿論、大学どころではなく、卒業、大学院入学を目の前にして休学をする選択を取りました。

母の電話がなければ、僕はもう生きていなかったでしょう。

読解

倒れたのは大学四年生の十月で、それから暫くは暗闇の中で過ごしました。

数年ぶりに京都に帰り、実家の自室で何をする気も起きず、掛け布団に包まって世界と自分を切り離しました。

雨の日などは、知らぬうちに、人に迷惑のかからない死に方を考えていたりもしました。

時間になると部屋の外に置いてくれる食事も少ししか食べられず、また自責の念に駆られます。

せっかくの食事も味がしなければ、食べる気も起きません。

それどころか、家族の気遣いが自らの情けなさを浮き彫りにするようにすら感じました。

半年ほど経った頃、やよい軒のミックスとじ定食で味覚を取り戻した僕は、お店で号泣しました。

味を感じられるって、なんて幸せなことだろう。

この日以来、僕は食事の前に写真を撮ることが増えました。

インスタ映えのためではなく、感謝のために。

元気を取り戻しつつあった僕は、母方の祖父母を頼りました。

祖父母は変に気を遣わず、僕を置いてくれました。

祖父は何も言わずに僕を船釣りに連れ出してくれました。

祖母は屋根裏部屋に籠りがちだった僕を、屋根の上に呼んで庭の植物の名前を教えてくれました。

あまりに花の名前を知らない僕を「あんた、何も知らないのね」と一蹴することもありました。

確かに、僕は学び続け、頭は良くなったかも知れません。

しかし、本当に大切なものは机上で考える頭には宿っていなかった。

自らの身体感覚で世界に触れ、感じたこと、思ったこと。

かかった魚の重みや、花の香り、屋根から見上げる星空。

頭ではなく、心にこそ、大切なものは宿っていました。

好きなものを、愛せばいいんだ。

嫌なものは、嫌と言っていいんだ。

そこに気づいた僕は外の世界に出ました。

北海道や台湾への一人旅、現地の人との出逢い。

感じたことを持ち帰って、祖父母の家の暖炉で火をつついて咀嚼する。

自己啓発の本ではなく、世界を愛することができる音楽を、映画を、物語を貪るように取り込みました。

この時期の体験が今の僕の礎になっています。

家族には感謝しかありません。

肯定 

次第に生きる気力を取り戻した僕は、先のことを考えられるようになりました。

大学は休学してしまったため、今年度での卒業は厳しい。

それならば、思い切ってこの休学期間を活用した方が良い。

どうせ一度死にかけた人生、好きに生きよう。

僕はそう考えました。

まずは何をするにも、軍資金が必要です。

そう考えた僕は、大学入学当初からお世話になっていたナゴヤドームでのアルバイトで、社員と同じ仕事をしたいとマネージャーに進言しました。

これは四年間の実績を見込まれ受理されまして、一日懸命に働けば、まとまった金額をいただけるようになりました。

勿論、それに見合う働きをしますから、販売成績も上がります。

ついには、会社の販売部門で歴代一位の日間売り上げを達成するまでになりました。

真摯に仕事に向き合うことで、周りの方々からの信頼も厚くなり、自分自身のことを肯定できるようになりました。

挑戦するに十分な金額を貯めた僕は、次の手を打ちました。

検証 

大学二年時の作品で勝ち取った賞金と、働いて貯めたお金を合わせた30万円。

これを持って、僕はナレーション学校の門戸をくぐりました。

大学生時代から、趣味で行っていた声の活動。

好きでやっていたことにこそ、未来の開ける可能性が隠されているのではないか。

この仮説を検証するためです。

オーディションを受けて合格し、厳しい指導のもと声を学びました。

指導を受けた後、仲間とファミレスに集っては勉強会を開き、時にはカラオケで台本を詠み合わせ、演技の練習をしました。

国内屈指の演劇部の発表会に赴いたり、夏には皆で勉強合宿を企画したり。

勉強ばかりに囚われて存在しなかった青春を、取り戻しているかのような日々でした。

この時期に行っていた発声練習を、今でも行っています。

確かな手応えと、前に進んでいる実感。

明るい未来への希望。

僕の歩みは加速し、ついには走り出しました。

しかし、ここにも罠は潜んでいました。

双極 

上り調子を良いことに、僕は可能性を拡げようと色々な人に会いました。

並行して働いていた球場での仕事のシーズンが終わり、企画された職場の部署間交流を兼ねた打ち上げにも参加しました。

楽しくお酒を飲んでいたのですが、会話の中で他部署の方が仄めかした興味深い話を、アンテナを張った僕は聞き逃しませんでした。

どうやら、新しいビジネスを立ち上げたい人が協力者を募っているとのことで、僕はその人に連絡先を繋いでもらうことにしました。

これが悪手でした。

僕はMLM、ネットワークビジネスに飛び込んでしまいました。

MLMとは、俗にマルチまがい商法とも呼ばれる法律的にグレーな商売です。

社会的知識の乏しかった僕は見事に巻き込まれ、講演会にも足を運び、どんどん洗脳されていきました。

しかしこれは、ただ巻き込まれたでは済まない話だったのです。

当時はまだ知りませんでしたが、僕は正確にはうつ病ではなく、双極性障害を発症しておりました。

うつ病は、周期的に気落ちする時期がきますが、双極性障害は躁鬱病とも呼ばれ、うつ期に加えて躁状態の時期も表れます。

躁状態とは、簡単に言えばうつ状態の真逆です。

ドーピングをしたかのように超人的に動き回り、内には自信とアイデアが満ち満ち、全てが輝いて見えます。

人生で初めての躁状態とMLMとの出逢いが重なってしまい、化学反応を起こしてしまいました。

愛知にいた次の日は東京、その次の日は福岡。

しまいには、警察ですら尻尾を掴めない巨大組織のトップにまで辿り着き、直談判で「僕に5000万円の投資をしないか」と持ちかけるに至りました。

今思うと、常軌を逸した行動です。

その後、正式に組織に入るよう促され、僕は巨額の入会費を工面することになりました。

これが大金で、当時の僕は支払えずに家族を頼りました。

しかし、これに違和感を感じた両親に引き止められる形で、この一件は事なきを得ました。

入金期限の三日前でした。

もしもあのまま、自分の双極性にも組織の闇にも気づかずに突き進んでいたら、借金を抱え、友人も、親しい方々とのご縁も失っていたと思います。

電話で叱ってくれた弟、直接引き止めに来てくれた両親に感謝です。

本当にありがとう。。

この事件をきっかけに、僕は大学生時代の下宿を引き払うことになりました。

部屋の住所はMLM組織に開示してしまっていたためです。

両親の力を借りて即日部屋を引き払い、全てを売り払って、逃げました。

パーカーのフードを被って名古屋駅を歩く間、気が気ではなかったことを覚えています。

家を失った僕は、自分の現状を整理しました。

野球がシーズンオフに入って仕事は無く、精神状態は不安定。

活動拠点を失ったが、愛知県でナレーション学校には通い続けなければならない。

再度の失敗でまた実家の自室に籠った僕は、また自信を失いかけていました。

このまま何もしなければ、考える時間が増えて、また自責の念にかられてしまう。

実家に頼りきりでは、同じことを繰り返してしまうだけだ。

しかし、新しく部屋を契約するお金はどこにも無い。

そこで僕は、自由に活動できる環境を手に入れるため、住み込みのアルバイトを始めることにしました。

抑圧

ナレーション学校のある名古屋に通える範囲で、なるべく人里離れた場所。

僕が選んだのは、愛知県蒲郡市の西浦でした。

リゾートバイトの募集サイトで、旅館住み込みの募集を見つけ、これに応募しました。

緑のスーツケース一つに着替えと履歴書だけを詰め、僕は現地を訪れました。

最寄りの蒲郡駅から西浦まではバスで30分。

停留所から旅館までは急な坂を登ります。

年末で寒いはずなのに、旅館に辿り着く頃には汗だくでした。

事務所の中に入り、担当の方の名前を伝えます。

奥から現れたスーツ姿の女性に館内を案内され、寮の鍵を渡されました。

部屋はまたもワンルーム。

しかし、一人になれる空間を確保できた喜びに、涙が溢れました

この地で力を蓄えよう。

そして、次の動きに備えよう。

その日はぐっすりと眠り、翌日から仕事に励みました。

旅館の朝は早いです。

千と千尋の神隠しを想像していただきますと、景色が浮かびやすいかと思います。

朝五時には出勤ですから、支度の遅い僕は四時起きです。

以下、主に食堂での接客を担当した僕の、一日のスケジュールです。

 

4:00 起床▶︎4:15 温泉に浸かって身支度▶︎5:00 お客様の朝食準備▶︎6:00 接客開始▶︎10:00 片付け・お見送り▶︎11:00 中休み▶︎16:00 お客様のお迎え・夕食準備▶︎17:00 接客開始▶︎22:00片付け▶︎23:00 終業・温泉に浸かっ就寝

 

お気づきかも知れませんが、労働基準法なんてものはありません。

身を粉にして働き、死んだように寝る。

そんな日々の繰り返しでした。

時には働き過ぎで、熱を出して寝込むこともありました。

痩せ細った身体で満点の星空を見つめ「いつまでもここには居ない」と自分を鼓舞し続けました。

しかし、精神の不安定だった僕には、このくらい忙しい方が考え込まないためには良く、結果として良い環境だったと思います。

また、旅館で働く特権として温泉は入り放題、リゾートは散策し放題です。

朝晩は必ず温泉に浸かり、中休みには三河湾沿いの遊歩道や万葉の小径を歩く。

激務さえ耐え抜けば、健康にならない訳はありません。

心身は少しずつ張りを取り戻しました。

こうして、上司や夢を持つ仲間にも恵まれ、約二ヶ月間を働き抜いた僕は、引っ越しのための貯金目標を達成しました。

引っ越し先では、個人で生きる力をつけたい。

そして20182月、ついに僻地を飛び出しました。

アルバイト時代

解放 

新天地は、東京からアクセスの良い千葉県千葉市に決めました。

理由の一つは、オリンピックをこの目で見たかったことです。

一生に一度、経験できるかできないかの祭典。

きっと、想像を超えるエネルギーが世界中から集まり、大きく刺激を受けるに違いないと考えたのです。

旅館で働いて貯めたお金を初期費用に充て、僕は小さな拠点を構えました。

人生で三度目の引っ越し。

三度目のワンルームも慣れたものです。

未だに引っ越したての頃の写真を見返しますが、初期装備は簡素なものでした。

マイク、ヘッドホン、MacBook Pro、寝袋。

たった、これだけです。

これらが全て、僕を表す仕事道具になろうとは思いもしていませんでした。

SNSで知り合った男友達に力を借りて天井照明を取り付け、新生活は始まりました。

目下の目標は、生活を成り立たせることでした。

直面 

不動産の方には安定した職についていると説明しておりましたが、これは真っ赤な嘘でした。

実のところは、初期費用を捻出するだけで精一杯の一文無しです。

お恥ずかしいことに、全ての生活費を自分で賄って生活することは人生で初めてでした。

まずは食いぶちを見つけなければなりません。

旅館時代からずっと、引っ越したら声の活動をすることだけは決めておりましたので、仕事もそれに関わることが良い、とコールセンターを選びました。

しかし、このコールセンターは俗に言うテレアポで、営業の電話をかける仕事でした。

お金のある富裕層を狙って、どこから入手したか知れない電話番号の一覧表を用い、商品を売りつける。

僕の担当の商品は、言われなければ必要は無いであろうもので、一本の電話をかけるたびに良心が痛みました。

もとは必要の無いものを、その気にさせて売りつける。

この業務形態に、心から嫌気がさしました。

「嫌なことは、続けると無理が出る」

僕は一ヶ月でこの仕事を辞めました。

さて、辞めたはいいものの、このままでは月末までしか生きられません。

文字通り、もやしだけの生活をしながら僕は次を考えました。

僕は活動を志してこの地に来たんだ。

働く時間は出来るだけ短くして、活動の時間を増やしたい。

そこで、近所のカラオケ店の夜勤バイトに応募しました。

夜勤というものは、辛い仕事です。

しかし、それ故に時給も高く、昼夜の逆転が可能な人間には魅力的な仕事です。

夜勤だ。

夜勤しかない。

しかし、結果だけを申しますと、この仕事も一ヶ月で辞めることになりました。

理由は単純、心身の不調でした。

心身の健康を保つためには規則正しい生活を送る必要がある。

またも月末までの命となった僕は、次の食いぶちを探します。

この頃には、声の活動の志はクローゼットの隅に追いやられ、ただ生活することだけが目的になっていました。

働いては辞めることを繰り返し、ついには人生で初めて、アルバイトの面接で落ちるということも経験しました。

僕は完全に、自分を見失いました。

配分 

そんな僕を救ったのは、ある一つの仕事でした。

ZOZOTOWN倉庫の棚入れアルバイト。

通販用の服や備品を倉庫で出し入れ、管理する仕事です。

これが、この頃の僕には合いました。

完全に単純作業の繰り返しですので、手先だけ動かせば頭は使いません。

本来の僕ならば飽きてしまって直ぐに辞めていたでしょうが、活動を並行させるには適しました。

単純作業に身体だけ用い、頭では自分の活動の計画を立てました。

実際に活動を開始してからも、働きながら次に打つ一手を考えました。

作業効率は、必ず平均より少し上になるよう調節します。

下過ぎると叱責され、上過ぎると管理を任され、却って頭を使う羽目になるからです。

つい良い成績を出してしまった後の日などは、意識的にシフトを減らしました。

こうして実績と出勤率のバランスを取り、平均より少し上の存在をキープしました。

我ながら、生き残る為に必死でした。

これが功を奏し、活動は軌道に乗ります。

ついには月間のアルバイト収入を上回り、僕は初めて前向きな理由で仕事を辞めました。

理想としていた生活を手に入れたかに見えました。

しかし今振り返ると、ここはまだ道半ばだったのです。

見切 

毎日欠かさず、時間を決めて生放送を行う。

僕の行っていた声の活動の収入源は、アイテム収益、即ち投げ銭の収益が大半でした。

つまり、活動をしない日の収入はゼロです。

しかも、視聴者の方々には負担を強いることになります。

時間的拘束の割には不安定過ぎる収入源に、気持ちは焦りました。

毎日早起きをして、生放送を行う。

日中は、分析と企画立案に充てる。

そして、夜にまた生放送を行う。

好きなことを仕事にしているはずなのに、全く気は休まりませんでした。

なんだ。

何が間違っているんだ。

その時の僕は気づけませんでしたが、ここで問題だったのは収益のモデルそのものでした。

先程も書いた通り、収入の大半を投げ銭に頼ると、収入は不安定になります。

加えて、その場限りの刹那的な活動では、長く効力を持つ実績を積み上げることができません。

自分の代わりに働いてくれる資産をつくること。

これが、安定的な生活基盤を作り上げるためには必須の考え方でした。

しかし、ここに気づけなかった僕は少しずつ消耗し、ついには一年間続けた活動を休止しました。

走り疲れてしまったのです。

区切りをつけるため、残った影響力で最後に一度だけ舞台に立ち、僕は振り出しに戻りました。

対話 

活動を休止した僕を再び待ち受けていたのは、生活の困窮でした。

消耗した心身に、急に新しい仕事をゼロから見つける気力はありません。

ひとまず、ZOZOTOWNのアルバイトにもう一度お世話になりつつ、次の一手を探しました。

僕は、一度挑戦して、負けた。

声での活動を志し、叶わなかった。

もしかすると、夢を諦めて一般企業で働くべきなのかも知れない。

しかし、この時既に、僕の学歴は高卒になっていました。

活動に夢中になっている期間で、大学の休学期間が切れしまったのです。

大学院に主席合格した、高卒。

世間から見ると、奇妙な肩書きの男が出来上がっていました。

普通に就職活動をしても、うまくいく見込みは無さそうです。

そこで僕は、アウトロー採用というものに参加しました。

アウトロー採用というのは、NPO法人キャリア解放区の運営する、新しい形の就職活動です。

まずは、参加する求職者同士で合宿や対話イベントを通じて相互理解を深め、気の合う人間同士でグループを組みます。

そして、そのグループと企業の人事の方で様々なテーマを議論し、惹かれ合えば採用に繋がる、という取り組みでした。

思えば千葉に引っ越して一年半、ほとんど独りで活動していたため、面と向かって人と話す機会は久々でした。

時には哲学的なテーマに至るまで議論を繰り返し、相手に自分への新しい解釈を与えてもらう。

この対話の日々の中で、自分がいつの間にか異色の経歴を持つ人間になっていたことに気付かされました。

現代の就職活動の在り方に違和感を持つ、何人かの気の合う仲間も見つかり、僕の孤独は和らぎました。

この時に知り合った三人の親友とは、今でも定期的に話をしています。

そして僕は、ご縁のあったいくつかの会社の面接を受けることに決めました。

一縷

この面接を乗り切った先には、もしかすると人並みの生活が待っているかも知れない。

会社員として、無難な人生を歩み、家庭を築く。

一昔前から日本にある生活のモデルを、脱線してしまった僕でも実現できるかも知れない。

僕は、そんな一縷の望みを持って面接に挑みました。

自分の興味関心と近しく思えた展望を掲げる四社に絞り込み、順番に面接を受けました。

同じアウトロー採用を通った人と一緒に面接を受けることもありました。

そういった方とは情報を共有し、僕は気に入られるために全力を尽くしました。

そう、気に入られるために。

気づけば僕は、少年期と同じ過ちを繰り返していました。

結果は、四社全て、不採用。

異色の経歴をきっかけに、どこか一社くらいは受かるだろうと高を括っていた僕は、同じ面接仲間たちに水をあけられました。

あの人が受かるくらいならば、僕が受かるだろう。

どこか、慢心もあったように思います。

僕の人生は詰みを迎えたかに見えました。

「アルバイトからなら、いいよ」

そのうちの一社から、お声がかかりました。

進む道を失いかけていた僕は、二つ返事でこの会社にお世話になることを決めました。

入社した会社は、東京の一等地に本社を構えるイベント会社でした。

イベントと言ってもエンタメ系のイベントではなく、ビジネス界隈の催事を企画、運営する会社でした。

アルバイトとは言え多くの裁量を与えられ、上司には優秀で面倒見の良い先輩がつきました。

この先輩には最後まで本当に多くのことを教わり、人間的に成長をさせていただきました。

煙草、やめたのかな。

人間関係も良好で、恵まれた仕事環境。

少し憧れていた、東京でのやり甲斐ある仕事。

実績をあげることで、社員登用の話もあがりました。

ついに、生活基盤を整えられる。

そんな最中、コロナが日本に到来しました。

YouTube時代

再考 

情報には敏感な組織です。

感染症が海外で流行っているとの話は早い段階で耳に入りました。

軌道に乗り始めた僕の脳裏に一抹の不安がよぎります。

感染症が流行したら、イベント会社は立ち行くのか?

僕の予感は的中し、開催予定だった催事は軒並み中止。

末端の僕の仕事は無くなりました。

仕事はリモートになり、また千葉県の自室に籠る日が増えました。

社員の方々でさえ、催事の中止の後始末くらいしか仕事が無いのです。

僕の出勤時間は減りました。

それでも、生活できるだけの出勤時間を確保していただけたことには、今でも多大な恩を感じています。

しかし、世界中で阿鼻叫喚する人々の様子を見る限り、その後数年、同じ状況が継続することは容易に想像できました。

そもそも、故郷から遠く離れ、東京近辺に身を置いたのにはオリンピックを肌で感じる目的もありました。

そのオリンピックは今や、開催されるかどうかもわかりません。

僕はまた、完全に放り出されました。

今一度、自らの方向性を定め直す必要がある。

そう考えた僕は、初心に立ち戻りました。

ここに来たのは、個人で生きる力をつけるためだ。

もう一度、できることから始めよう。

202043日。

僕はリモートワークと並行してYouTubeでの動画投稿を開始しました。

背水 

この挑戦を形にしなければ、近い将来に職を失う可能性があります。

僕は追い込まれていました。

まず第一に、毎日投稿をすることを決めました。

仕事が忙しくても、体調が優れなくても、何が起きても毎日です。

仮説と検証を繰り返し、視聴者の方々に良い反応をいただいた動画のみを残し、そうでないものは容赦無く削除する。

それのみを繰り返しました。

第二に、本来行いたい創作は我慢することを決めました。

理想は、自分で書いて自分で詠むことですが、今はまだ誰にも興味を向けてもらえません。

作品を発表できる土壌を耕すまでは、滅私に徹する。

これも、今思えばいい判断だったと思います。

そうして、この時期に投稿した朗読動画が、登録者数に関わりなく多くの方々に好評をいただけたため、扱うジャンルは朗読を主と決めました。

ここで、ナレーション学校に通って身につけた基礎が活き始めます。

また、朗読を重ねるうちに、声が眠くなることをコメント欄で多々ご指摘いただくことになり眠くなるをチャンネルのテーマに据えることにしました。

後々、自分の声が眠くなる理由を睡眠研究の先生にお聞きしたところ、声自体が倍音になっていることと、独特の間の取り方が眠くなる揺らぎを生んでいることを教わりました。

四月、五月、六月、七月。

八月に怪談動画をお蔵入りにする日まで、毎日投稿は続きました。

そうして、活動を開始して半年、登録者が15000人を超えた九月、僕は大きな決断をすることになりました。

独立

この頃には、必死の活動の甲斐あって、有り難いことにYouTubeの広告収益だけで生活を成り立たせることができるようになりました。

一方、リモートワークの続く会社の方は、仕事の減る一方です。

僕はある朝、ねむり屋を開業することを思いつきました。

ここまで来れた。

自分の活動だけで食べていこう。

遠回りをしたけれど、今の自分なら大丈夫だ。

応援してくださる方々もいる。

僕は自分を信じ、思い立ったその日に書類を揃え、税務署に提出しました。

実は道中、その日は出勤日であることに気づきましたが、迷わずに欠勤しました。

申し訳ない気持ちもありましたが、仕事も無いのに出勤して、タダ飯を食べさせていただくことに罪悪感を感じていたことも事実です。

今思うと、とんだ社会不適合者の恩知らずな行動ですが、あの日の選択は間違っていなかったと、今では言い切れます。

2020年9月10日、ねむり屋は開業しました。

それに伴い、九月いっぱいで会社も辞めさせていただくことになりました。

本当に多くの方にお世話になり、時には迷惑をかけることもありましたが、最後には花道をつくって送り出してくれる、本当に大好きな会社でした。

コロナ禍にならなければ、そのまま働く人生も悪くなかったかも知れません。

しかし、僕は別の道を選びました。

今度こそ、個人の力で生き抜くと心に誓って。

受身 

ところが、独立を果たし、ネットショップも開設した秋、僕の精神状態は転調します。

活動期に身を委ね続けた結果、反動でうつ状態になってしまいました。

端的に言えば、ガス欠です。

独立した矢先の不調に、僕は頭を抱えました。

このまま何もできずに眠っていては、再びその日暮らしに逆戻りすることになります。

それだけは、避けなければなりません。

またも追い込まれた僕は、策を講じました。

朝まで眠くなる朗読の生放送を流し続けるのは、どうか。

これならば、僕自身が動けなくても、チャンネルは稼働を続けます。

深刻なうつ状態に入る直前の力を振り絞り、僕は仕組みを作りました。

負けてもいい。

しかし、

損傷を最低限に減らす。

僕は受身を覚えました。

幸い、この取り組みは視聴者の方々に好評で、その後も一年以上、毎日継続することになりました。

毎晩生放送を流し、余力のある日は詩を書いて過ごす。

これだけできれば、自らに及第点を与えました。

その後、冬の時期に投稿された朗読動画は、振り絞った一本のみでしたが、僕はどうにか、冬をやり過ごしました。

長い冬の後には、暖かい春がやってきます。

幸転 

春になり、精神の安定してきた僕は、転居を決意しました。

新天地で、心身を労わり、人間的な生活をしたい。

そうだ、田舎に住もう。

こう思い至った僕は、東京の郊外に拠点を構えました。

ベッドタウンにあった都市のワンルームから、田舎の広々とした住まいへ。

家賃こそ元のワンルームと変わりませんでしたが、部屋は窓を開け放つと風通しも良く、自然にも程近い好立地だったため、大きく悩むことは無かったです。

この選択が、大英断となりました。

自然に触れ、少しだけ不便を愛し、健康に生きる。

田舎の優しくおおらかな人々に囲まれ、日々を愛おしく生きる。

この規則正しく、癒しある生活が、僕の心身を支えてくれました。

健康な身体からは、健康な発想が生まれます。

日々を決して蔑ろにせず、できる範囲で次の一手を打ち続ける。

チャンネル登録者もいくつかの大台を超えました。

幸せは活き活きとした心に宿る。

この確かな実感のもと、今に至ります。

覚悟

ざっと僕の人生を振り返ってきました。

書き始め当初の想定よりも長い自己紹介になってしまいました。

ここまで読んでくださった方は猛者です。

皆々様には、今の僕がどうやって出来上がったか、全てが伝わっているかと思います。

僕のことを見つけ、知ろうとしてくれて、本当にありがとう。

最後に、今の僕の見据える先をお話しして、夜咄を終えたいと思います。

ここまでの僕は、七転八倒しながら、それでもしぶとく生き残ってきました。

必死に藻掻く中で、応援してくださる方々にも恵まれました。

 

 

あなたです。

 

 

ここまでは、自分一人を立たせるための闘いでしたが、これから先は違います。

次は、皆で楽しめる未来を拓きたい。

周りのみんなを巻き込み、ワクワクする日々を共に過ごしたい。

そのためには、僕自身も次のフェーズに進まなければなりません。

この文章を読めば分かります通り、本来の僕は書き手です。

これまでは読まれないことを恐れて隠してきましたが、もう解放してもいいはずです。

本当に僕のやりたかった、作品の創作を。

自分で書いて、自分で詠む。

自分で書いて、誰かに詠んでもらう。

読書感想文、大学入試、卒業論文。

思えば、人生の要所で助けてくれた文章力には、絶対の自信があります。

正確には、繰り返す自惚と言ったほうがいいかも知れません。

これまでの人生では何度も慢心し、失敗をしてきました。

もう、自分のことを過信もしないし、卑下もしない。

創作者として、表現者として、両輪の能力を磨き続ける。

そのためには、

剽軽者として戯けたり、風見鶏のように周囲を伺う必要はありません。

怠惰に身を任せず、勤勉である必要があります。

学んだ構造化と伝達力を活かし、失敗を恐れずに仮説と検証を繰り返す。

自らの双極性を乗りこなし、力をうまく配分して最善の一手を打つ。

決して驕らず、応援してくださる方々との対話の時間を大切に、

時に負けても、最後は勝つ。

これまでの全ての自分の行いに学び、応援してくださる方々と時代に寄り添う覚悟です。

そして、

やりたいことを片端から体験し、好きなものに囲まれて死にたいです。

以上16600文字を自己紹介とし、僕は次に進みます。

誰も、置いて行かないよ。

 

2021年10月10日夜咄頼麦

 

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