やきそば

 

 

お財布がピンチだ。

 

僕は配信者としての一面を持っている。昨年からの一連の流れの中で、配信環境を整えることを一つの目標にして行動してきた。身体的にも精神的にも放浪した時期を越え、諭吉様と会うために旅館で働いた日々。今ではこれが綺麗な思い出として味付けされ、いつでも取り出し可能な冷凍庫に無造作に仕舞われている。そんな一握りの思い出と数人の諭吉様と一緒に引っ越してきたわけだが、一緒にいたはずの人達がいつの間にやらいなくなっている。出逢いがあれば別れがあるとはその通りだな。

 

三月に単身思い切って関東に引っ越してきて、早くも一ヶ月が経った。いや、早くはなかったかも知れない。お引越しについて回る事務的な手続きや職探し、生活の組み上げ。そういったものを混ぜて詰め込んだような三月だった。駆け抜けている間は混沌としていた日々も、後から俯瞰してみると、これまたうまく味付けされてひとまとまりに見えたりするから面白い。

 

未だ”欲しいもの”は尽きないが、ひとまずの生活に”必要なもの”は揃い、ブログを書く余裕だって出てきた。配信だって、時間がズレてしまうことはあるけれど、毎晩22:00と時間を決めてできるようになった。新しい目標や、知りたいこともできた。順調だ。順調過ぎる。順調過ぎるが故の見落としだった。

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何が問題なのかを整理してみようと思う。出費には種類がある。大きく分けると、固定費と固定でない費用。毎月かかる家賃や光熱費は固定費、食費や趣味のための交通費や交際費は固定でない費用だ。余裕が出てきた中で、僕は後者にお金をかけ過ぎてしまった。これによって前者の固定費に使用するお金が圧迫されていることが、どうやら一つのピンチの理由らしい。

 

期間も一つの考慮すべき事項だ。僕は残りのお金で次の給料日までの一ヶ月間を生き抜かなくてはならない。ここで難しいのは、固定されていない費用、その中でも特に交際費だ。そこには自分と自分以外の人間との”約束”というものが絡んでくる。約束というものは極めて重要で守るべきもの(守らなければ自らが蝕まれる)と考えているので、出費を抑えたくなったからといって、すでに交わした約束を反故にすることはできない。そしてなんとなんと、今月には人生初のディズニーランドと、人生初のニコニコ超会議という巨大なイベントが待っているのだ。

 

らいむぎ、瀕死状態だ。

 

それでもそんなことをネタにしてブログに書いちゃってるあたりは、根が楽天家だからなのだろう。これまでどうにかなってきた訳で、今回の問題だって、未来の自分がなんとか解決するのだ。僕のゴールはまだもう少し先にあるようなので、まだここで死ぬようなことはない。生に執着しているということは、自分でよくわかっている。だから今日も午後から労働するのだ。

 

労働といえば先日、伊東歌詞太郎先生の小説処女作『家庭教室』の朗読会があった。たまたま東京に居合わせた身としてはこれを見逃すことはできず、仕事を急遽サボ…休んで向かった。声優のお二方や小説家の先生を呼んで池袋のニコニコ本社で行われたのだが、この内容がまた濃かったのだ。参加者がほぼ女の子だったことや一時間並んだことは置いておいて内容に少しだけ言及する。

 

物語の中で主人公の灰原先生が”時給”というシステムに言及するくだりがある。簡単に書くと、時給というシステムは働いた成果ではなく、働いた時間に対する評価に重きを置くシステムであるから、同じ時間を働いてもその待遇には差が出る。最近叫ばれている、同一労働同一賃金にも通じるお話だ。自分の好きなことに時間を割きたいのならば、いかに短い時間でお金を稼ぎ出すかが重要になってくる、とのことだ。

 

この感覚はすごく大切だと思う。畢竟、人間が死ぬ時に望むものはお金よりも時間だろう。いつかは誰もが死ぬことは明白で、終着点が決まっているのなら無駄な時間は割きたくないと感じる。しかし日常を繰り返すうちにその感覚はどうにも薄れるし、無駄なことの中に豊かな何かがあることも間違いない。結局、無駄なことなどない、という思考に至り、また行ったり来たり。好きなことをして生きていきたいな。

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常日頃、例えばお風呂上がりに酎ハイを飲んでいるような時、ふわふわとそんなことを考えている。このふわふわとした時間は貴重なもので、そのあとにパタリと眠りにつくことを考えると、さながら人生の黄昏時、死に臥せる直前に近い感覚なのではないだろうか。ふわふわと漂う、楽しい死後があると思えば、気も楽になるだろうか。死の読み方は一つ、生の読み方はそうではないというのは有名な話だ。シンプルに考えれば考えるほど、思考は複雑になっていく。どうやら、生きるとはそれほど単純なものではないらしい。

 

生物の最終目的が子孫を残すことにあるとしたら、頭を空にして男と女で交わっていればそれでいいのだろうか。それはきっと人間として美しい行為ではないが、それを芸術として表現するところには、言葉を失うほどの美しさが生まれたりするのだ。唄われ、引き継がれてきたように、男と女、性や恋愛は人類の永遠のテーマだ。しかし、性別という概念だって昨今は確かなものではなくなってきている。

 

新宿二丁目という地区がある。所謂LGBT、性的マイノリティと呼ばれる人々が夜な夜な集う街だ。そこに先日行ってきたのだが、これがまた濃い体験だったのだ。そのお店は二時間三千円という良心的なお店だったのだが、ママがとても気さくな方で、僕はすぐに人間的に好きになってしまった。話せば話すほど魅力の滲み出る彼女は、60歳近い所謂オカマだ。性別ってなんなんだろうね。相手にも気に入っていただけて、勧められるままにお酒を飲んでいたら三時間半も長居してしまった。申し訳なかったが、すごく楽しく、新しい体験だった。遅くなったので、その晩の宿泊費が発生してしまった。

 

お財布がピンチだ。

 

しかし、それらのお金が体験として僕の血肉となり、思考として言葉としてこうやって出力されるなら、悪くない使い方をできたのだろうと思う。こうやって考えたこと、書いたことも嵯峨ノ頼麦という一人の人格に味付けされて、キャラクターとして一皿にまとまる。ちょうど、今朝食べたやきそばのように。

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