らいむぎはどんな人?
初めまして。らいむぎ(@rye_enjoy)と申します。
僕のことを大まかに説明させていただきます。
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基本的には、物腰が柔らかく、落ち着いた青年です。静かな存在感を放っているタイプです。
しかし、手の銃で撃たれたら、2〜3m後方に吹っ飛んで、しばらくはピクリとも動かない感じのノリの人です。
建築・デザイン系の大学院に首席合格するも、卒業目前で大学を休学し、ナレーション学校に通いつつ、旅に出たり、興味のあることにどんどん挑戦しています。
美味しい食事をとっている時間、温泉に浸かっている時間、おふとんの上が幸せ。ごはんを食べている間は、あまり話しません。
癒やしと元気をテーマに、ツイキャスで毎日ラジオ配信をしています。
座右の銘は、「わくわく、楽しんで生きる」

↓↓もうちょっと知りたいな〜?という方は下へスクロール↓↓
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これまでの人生のダイジェスト。
優しい父、器用な母の間に生まれる。
僕は、愛知県半田市内の病院に生まれました。
赤ちゃんとしては大きめのサイズで、3800gの元気な赤ちゃんでした。めちゃめちゃ、よく泣いたそうです。
生まれてすぐに京都に移り、京都で育つことになりました。近所のおばちゃんや親類にも可愛がられ、歌に合わせてダンスを踊ったりと、ちょっとしたムードメーカーでした。
父は優しく、話すことが好きで、たくさん話しかけられていたことをぼんやりと覚えています。
母は器用で、この頃からおもちゃ入れなどちょっとした小物を手作りで作ってくれていました。
愛に囲まれた、幸せな子どもでした。
モテ期の幼少期。
幼稚園時代は、僕のこれまでの人生で最大最高のモテ期でした。近所の幼馴染の女の子と毎日手を繋いで帰り、園では別の子と戯れる日々。
幼稚園からの帰り道での、かわいらしいエピソードがあります。
その日も僕は幼馴染の女の子(以下、Aちゃん)と、おててを繋いで帰っていました。先生が先頭で、みんなが列になって歩いています。僕とAちゃんは背が高かったので、一番後ろでした。僕が左側、Aちゃんは右側です。
帰り道も終盤。曲がった坂道をおりた、電柱のふもとに、お迎えのママさん達が待ち構えています。いつもなら列についていくだけのAちゃんが、カーブの手前で立ち止まります。





僕が答えるや否や、Aちゃんが僕の右のほっぺたに、
ちゅ
ああ・・・僕、この子と結婚するんだな・・・と思いました。
(数年後、悲劇の別れが待ち受けているとも知らずに。)
そんな感じで、楽しく、モテモテ(?)の幼少期でした。
戻りたい。
かわいい弟が生まれた4歳。
僕が4歳の頃に弟が生まれました。僕とは対照的で、全然泣かない子だったそうです。
僕は、物珍しいので、仲良くしようと生まれたての弟によく近づいていたのですが、その度にほっぺたを爪で引っかかれていました。
それでも、やさおの僕は、懲りずに近づいていました。本能的に、顔を傷だらけにしてでも大切にしたい相手だと感じていたのだと思います。
顔に傷が残らなくて本当に良かった。。。(右手には残っています。)
わんぱくだった小学生時代。
黒のランドセルを買ってもらい、いよいよ小学生です!!!
この頃から、水泳を始め、高学年の頃にはバレーボールも始めました。バレーボール部では、美人で巨乳な先生に、ベタ惚れだった記憶があります。写ってる写真も、いつもその先生の隣。
スパイクを放つ先生の揺れるおっ・・・。少年心にドキドキしていましたね。
小学生時代は、とにかくわんぱくでした。
ブランコに乗る女の子に「白パンツーーー!!!」と叫んだり、隣の席の子にちょっかいを出したり、木に戦いを挑んだり。
更衣室に2回連続で突っ込むなんてこともありました(これは配信でお話ししましょう)。
勉強に熱中した中学生時代。
中学生時代に、母の勧めで、地域の塾らしきものに入りました。小学生時代は、わんぱくだったこともあり、成績はそこそこだったのですが、ここで覚醒します。

勉強にハマった僕は、ぐんぐん成長し、塾のテストで常にトップに名前が載るようになりました。中学の成績にもそれは影響し、成績は学年トップという状況でした。初めて勉強で注目を浴びた僕は、有頂天になっていました。
しかし、世界はうまいことできていますね。調子に乗った僕は、勉強以外は全然ダメでした。
部活の野球は、骨折や故障を繰り返してレギュラーになれず、たまに打席に立っても凡退。練習では打てても、試合では打てない。
結局、公式戦で一本もヒットを記録できなかった、部活史上唯一の部員になってしまいました。まあ、それはそれで名を残せた感あって嬉しいですけどね。笑
恋愛も、卒業間際にラブレターで告白したのですが、結局失恋。
とはいえ、勉強だけはできたので、京都府でも有数の進学校に、推薦の上位枠で入学を果たしました。
プライドのへし折れた高校生時代。
もう、僕には勉強しかない。そんなバカな考えを持って、高校生活はスタートしました。まずは、この勉強大好き集団の中で一番をとってやる!!!と思いました。
序盤は好調でした。高校一年生の授業内容は、中学時代の知識を使ってなんとかなる問題が多いので、当時の僕には簡単に思えました。模試では、京大、東大もSS判定。全然通用するじゃん!!!
・・・と、勘違いをしていました。今思うと、本当に愚かです。
できると思い込んだ僕は勉強をしなくなり、成績はみるみる下降線を辿りました。入学時に上位だった校内順位も、目に見えて下がっていきました。
悩ましい日々を過ごしていた僕は、気分転換をはかろうとしました。そこで、友達に誘われて入ったバドミントンに打ち込み始めました。
もともと、運動は好きなので、こちらも徐々に上達。いつの間にか、市内の新人戦のダブルス部門で優勝するくらいにはなっていました。ここでも僕は調子に乗りました。(何やってんだ・・・。)
バドミントンは高校から始める人も多いのですが、新人戦は、そういった子達だけが出る大会だったんです。当然、ジュニア時代から続けている人と戦うと、苦戦を強いられます。
ジュニア時代経験者も参加する大会に参加を始めてからは伸び悩み、結局、部活最後の団体戦も、僕の敗北で幕を閉じました。
勉強もダメ。部活もダメ。

そう思い込み、落ち込んだ僕は受験に身が入らず、下げに下げた志望校にも通らず、滑り止めの大学に入ることになりました。
幻想を追い続けた大学生時代。
小論文だけで入ったような、愛知県の、建築系の大学。それでも、拾っていただけたことには感謝をしていました。
夢の一人暮らし生活。この場所で再起を図ろう!!もう一度、高校時代の世界まで登りつめる!!だなんて、くだらないことを考えていました。
そんな世界、自分が勝手に作り出した幻想なのに。
当然、その考えは空回りをします。
考えに考えた作品が評価されない。評価されても、先生によって全然評価が違う。

・・・人によって、物の見方、考え方が違うことは当然のことです。僕の視界は、あまりにも狭くなり過ぎていました。
そんな僕の視界に入った、とある研究室。厳しいことで有名な、ピリッとした研究室でした。
「僕を鍛え直すにはあそこしかない。」
そう思い、思い切って研究室の扉を叩きました。
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事件。
刺激的な環境と、自己研鑽の日々。
ここも、序盤は良かったのです。知識も体験も豊富な教授、素敵で頭の切れる先輩、有能な同僚。
毎日のように、論文や書籍、建築旅行で知見を蓄え、ゼミで毎週のように発表をしました。
学会にも参加し、その世界に憧れて、大学院に進むことも決めました。大学院入試は、見事、ぶっちぎりの首席。
これならいける・・・!!!もう一度、あの世界へ!!!
あとは卒業に向けて、論文を書きまくるだけです。やりがいしか感じません。心を亡くし、毎晩のように徹夜をしました。
そして、過労で倒れました。
過労で倒れ、大学から消える。
気づくと、床に倒れていました。
書きあがりまであともう少しの論文を見つめても、頭が真っ白なのです。頭が、全く動きませんでした。
しまいには、熱が下がらなくなり、何も食べる気にならなくなりました。
提出間際だから帰るわけにもいかない。それでも、ただ、倒れているしかない。
涙が溢れました。
ここまで論文を磨き上げてくれた教授にも、先輩にも、同僚にも、申し訳ない気持ちでいっぱいで。
Mac bookも、論文のデータも、寝泊まり用のベッドも全て置いて、僕は大学から消えました。
消耗性うつ状態と診断され、大学卒業目前で休学。
なんとか家に帰り着いた僕は、布団に倒れこみました。
実に、数ヶ月ぶりの布団でした。
何も食べることができず、食べても味を感じず、どんどん衰弱しました。
体重は、標準状態から-15kgに達しました。
水を飲まないと、死んでしまうと思った僕は、ひたすら水を飲みました。
そして、お腹を下しました。
熱が下がりません。5分に一度はお腹を下すので、布団と便器を往復しました。
当然、寝ることなどできません。
涙ばかりが溢れました。
意識が朦朧とします。
調子に乗ってごめんなさい。自分勝手でごめんなさい。書き上げられなくてごめんなさい。期待をしてくれた父さん、母さん、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。。。
周りの目を気にして、勝手に期待を背負いこんでいただけ。
つまらないプライドのために、好きなことなんて何もできなかった。
そんなことばかり考え、意識が薄れていきました。
自責ばかりで死ぬなんて、くだらない人生だな。。
。。。。。。
。。。。
。。
。
そこに、LINE電話がなりました。
母でした。
なんとか、手を伸ばして、出ました。
愛知県に遊びにいくのだけど・・・と。
言葉が出ませんでした。
異変を察した母は、すぐに行くと言ってくれて、僕に病院に行くよう促しました。
病院では、車椅子で院内を運ばれ、点滴を3回連続で打ちました。意識がはっきりするまで、ひたすら天井を眺めていました。。。
診断結果は、急性胃腸炎、その他症状の併発でした。4つくらいの症状が重なっていました。
のちに通った精神科では、うつ病(正確には消耗性うつ状態)と診断されました。
心身ともにボロボロだったわけです。
その後、家に帰り着いたところに母と祖母が到着。
「何やってんの、あんた。」と、優しく叱られた記憶があります。
大学どころではありませんから、卒業を目前にして休学をすることになりました。
母の電話がなければ、僕はもう生きていなかったかもしれません。
うつ状態とのお付き合い、暗黒時代。
倒れたのが大学4年生の10月でしたが、それからはしばらく、うつ病とお付き合いすることになりました。
ご存知の方もいらっしゃるかと思うのですが、うつ病には周期のようなものがあります。気分のいい時期もあれば、気分の落ち込む時期もある。僕の場合は、おおよそ、一ヶ月周期でこれが繰り返されました。
自分以外の全てに申し訳ないという気持ちばかりになるのです。しばらくは抜け出せませんでした。雨の日などは、知らぬうちに、人に迷惑のかからない死に方を考えていたりもしました。
ようやく、まともに日常生活が送れるようになったのは、2017年4月のことです。ちょうど、半年ほどかかったわけです。やよい軒のミックスとじ定食に味を感じた時は、お店で号泣しました。
少しツイキャスをやってみた2017年2月は、実は、この周期の真っ只中でした。
この時期に読んだ本、聴いた音楽、観た映画、、、そして、リスナーの方々からいただいた言葉が、今の僕をつくっています。
随分とたくさん、元気を分けていただきました。
本当に今は、感謝しかありません。。。
少しずつ、動き始める。
元気をいただいて、動けるようになった僕は、前に進み始めました。


どうせ、一度死にかけた人生です。
そこで、ツイキャス配信を思い出しました。よし、今度は僕が周りの方々の元気になれる言葉を発信しよう!!と思いました。
まずは心身が健康でなければなりません。そこで、思い切ってナレーション学校のオーディションを受けてみました。これが合格し、毎週、レッスンに励むことに。
また、同時期に、ずっとお世話になっていたバイトで、昇格のお話をいただきました。いいことが重なりましたが、今度は調子に乗らず、有り難くそれらを受け入れました。
うまく行き始めた矢先、また調子に乗る
バイトも昇格し、ナレーション学校のオーディションにも合格。
ここで僕はまたまたまた調子に乗ります。(またかよ)
なんでもできる気がしてしまった僕は、ビジネスを立ち上げてみよう!!と思い立ちました。
不思議なもので、そういう時に限って魔の手は忍び寄ります。僕はMLM(ネットワークビジネス)に飛び込んでしまいました。
MLMとは、俗にマルチ”まがい”商法とも呼ばれていますが、要するにグレーな商売です。
社会的な知識の乏しい僕はまんまと巻き込まれ、セミナーへの参加で欲望を刺激され、どんどん洗脳されていきました。
その頃の自分は、調子に乗る特性も合わさって、巨大組織のトップに、直に「僕に5000万円の投資をしませんか」とのプレゼンをするほどの勢いでした。
名古屋から東京、東京から福岡、と飛び回り、文字通り飛ぶ鳥も落とす勢いで突き進んでいました。
しかし、なんとか、実際にお金を騙し取られる直前に家族に止められ、事無きを得たのでした。
入金の三日前でした。
もしもあのまま突き進んでいたら、借金を抱え、友達も、支えてくださった方々との縁も、失っていたと思います。
父さん、母さん、本当にありがとう。。。
双極性障害と診断される
読んでいる方々はお気づきと思いますが、人生において、僕は時々常軌を逸した行動をとることがあります。
これがどうやらただの性格などではなく、脳の働きのようなのです。
今は消耗性うつ状態から診断名も変わり、双極性障害(躁うつ病)と診断されています。
双極性障害がうつ病と違うところは、その逆の躁状態もセットで発症するということ。
心電図でいうと、うつがグラフの下の極、そうがグラフの上の極です。簡単にいうと、激しく気分の落ち込む時期と激しく気分のハッピーな時期とが交互に表れる病です。
思い返せば、そんなことばかりでした。
今ではそれも受け入れ、自分の一つの個性として認識しています。
なんとか乗りこなして、挑戦するエネルギーに変えていきたいです。
旅館で働いて得た資金を元に上京
目標のために旅館で働く
何度も失敗を経験した僕は、声優養成所で得た技術や経験を生かして、ライブストリーミング配信を行っていくことを考えました。
そのためには、自由に活動できる環境を作り上げなければならない。
実家に頼りきりではいけないと思い、上京するために住み込みで旅館で働かせていただくことになりました。
朝は5時出勤、夜は23時帰宅。
身を粉にして働く日々でしたが、どうにか耐え、生活費を抑えて、少しずつ資金を貯めました。
そして2018年2月、ついに上京しました。
生活が軌道にのるまでバイトの日々
引っ越したのはいいのですが、なかなか初めはうまくいきません。
実は、これまでは親の仕送りがあったので、全ての生活費を自分で賄いつつ生活するのは初めてだったのです。
貯めた資金は賃貸契約の初期費用で多くを削られておりましたので、どうにかして生活費を稼いでいかなければなりません。
正直、6月頃までは生活を成り立たせることに手一杯で、なかなか声での活動には入れませんでした。
コールセンターでのテレアポ(営業)、カラオケ店での夜勤、ZOZOTOWNの倉庫で棚入れ。
いくつかのバイトをやりながら、漸く7月に活動を開始できました。
そこからは、毎日欠かさず、時間を決めてライブ配信をしつつ、働く。
その繰り返しの日々でした。
声での活動が軌道にのる
2018年10月、どうにかこうにか活動の収益だけで生活ができるようになってきました。
この時点で少しずつバイトは減らし、どんどん活動に時間を割いていきました。
その中で、ツイキャスの登録者6000人、最大同時視聴200人まで数字を伸ばし、多くのリスナーの方々とのコミュニティ形成をしていきました。
2019年7月に活動継続一周年を迎えるので、その日を転機に、今後は動画投稿にも力を入れていこうと考えております。
自分が苦しかった頃の思いを胸に、多くの方々に寄り添う言葉を発信できるような、活動を続けていく所存です。
今のらいむぎと、これから。
わくわくする、充実した日々
今は、声での活動の他にも活動の場を求め、新しいコミュニティに参加したり、企業の方とのマッチングWSに参加したりなどしています。
自分の周りの人々や、関わってくれる方々を癒し、元気付けられるような存在でありたい。
そして、やりたいことを、片っ端から体験し、好きなものに囲まれて死にたい。
伊勢神宮、北海道、台湾などに旅をしたり、ダイビングを計画したり、広島岡山香川に一週間旅をしたり。おかげ様で、よく動き、よく学び、よく遊び、よく食べて、よく休む日々を過ごしています。
そんな中で、ブログ、ツイキャス、Youtubeの投稿にも挑戦しています。
僕が体験したことを発信するために。子孫に遺すために。そして何より、つらい時期にいただいた元気になれる言葉を返していくために。
これからも、これらを継続していこうと考えております。今後、好きなことを途切れさせずに挑戦していくことが一つの目標です。
将来的には、みんなで集まれるようなイベントなども行いたいですね!
気づけば、7500字を超える長文プロフィールになってしまいました。笑
以上が、僕のこれまでの人生のダイジェストです。書きながら、感情がぐっちゃぐちゃになりましたよ。。。
まだまだ、らいむぎは変化し、成長していきます。このブログも声での活動も、始まったばかりです。当然、成長に伴って、このプロフィールも更新していきます。
こんな僕でよろしければ、ゆったりまったりと、気長に応援してあげてください。
それでは!!!!
拙い点も多々あったとは思いますが、最後まで読んでくださった方々、本当にありがとうございました。
また、このブログやツイキャスでのラジオ配信、youtube、そして、いずれオフラインでもお会いしましょう。
それでは!!

嵯峨ノ頼麦
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