おじゃまします。らいむぎ(@rye_enjoy)と申します。
今回は2016年シリーズの最後の記事です。
当時の自分の拙い文章ですが、記録しておきます。
かなり、影響を受けた旅でした。
もくじ
宮城県石巻市大川地区
2016年 11/19〜11/25 宮城県石巻市大川地区へ。
この地区は東日本大震災時の津波により、ものに限らず、多くが失われた。
今回、参加したプロジェクトは、失われた街並みを、模型と被災された方々の記憶を基に復元するものだ。
お恥ずかしいことに初めてこの地区に行ったのだが、まず、驚いたのは、雄大な自然と海の幸・山の幸だ。
現地の方々に振舞っていただく食事がどれも美味しく、食に没頭してしまうことばかりだった。。
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被災現場
さて、被災地としての現状をお話しすると、やはり津波の爪痕はそこここに残っている。
写真で撮影したものの他にも、震災時に避難所となったある旅館の壁には「タスケテ」「恨」などの文字も見受けられ、避難者の心の叫びが聞こえるようだった。
被災された方々との会話については、どの記憶も表情も真に迫り、自身、感の極まることが幾度もあった。
上記のように過ごしていたところ、11/22の朝方に福島県沖で地震が発生、滞在する区域にも津波警報が発令されるということがあった。
命の危険を感じ、テレビとスマホにかじりついて情報を収集することに集中したのだが、これがなかなか難しく緊張感を保つことに随分と神経を使った。
比ではないが、震災時の疑似体験ができたと考えると、貴重な体験をしたように思う。
北上川を遡る津波も目撃した。
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帰り道
惜しいのは帰りに立ち寄ったせんだいメディアテークが月に一度の保守点検日のため休館だったことだ。
岐阜のメディアコスモスと同じ設計者。
宝箱が目の前にあるのに開けられないもどかしさ・・・。
まぁ・・・また来いよ、ということなのだろう。
仏滅にもほどがある・・・。
帰りのフェリー上では、あるきっかけで牧師の方のお話を聞けたのだが、震災直後と比べると、現状は、随分と復興の進んだ状態だという。
しかしこれは、あくまで物的な復興なのだろうと思う。
心は、なかなか、癒やされるものではないように感じる。
しかし今回、前を向いて活動を続ける人々と出逢った。
本当に強い人達だ。
そのうちの一人に、自身一枚目の名刺を渡した。
損得の関係でない、血の通った関係になることを願う。
きっと、復興には血の通った関係が必要になると思う。
自らの心身の不調でいただいた休養期間とも重なり、随分と様々なことを考え、行動する時間をいただいた。
・・・・お世話になった方々に感謝し、前に進みます。
振り返って
努めて明るく書こうとしていますが、当時の僕はかなりショックを受けておりました。
2016年は建築学生としての目で旅をしていたので、ちょっと見方にフィルターがかかっていますね。
実はこれらの記事の引用元はFacebookで、偉い先生方や同世代の目を気にして書いています。
今はこうして、のびのびと自分の言葉を発信できる場を手に入れて、好きに書けています。ありがたいことです。
何か、誰かに届く言葉があるといいな。
ではでは!
最後まで読んでくださった方々、ありがとうございました。
命を大切に。
嵯峨ノ頼麦
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もう、10年過ぎたのですね。被災者の方々の思いは、うかがい知ることなどとてもできませんが、
少しでも希望を見つけて下さっていればいいなと、願っています。今、また、宮城沖地震です
5強とか。
せんだいメディアテークは、毎年学生の建築展もあったり楽しめる処です。
前の通りは定禅寺通りと言い、秋には定禅寺ジャズフェスティバルが行われてましたが、今年もコロナ禍で残念ながら中止でした。
是非、ジャズフェスティバルに合わせて再仙して下さいね^ ^
らいむぎさんがここにこうして見たものを記録してくださっているおかげで、
あれから月日が経った今もこうやって見てまた改めて心に留め考える事が出来ています。
その全てが当たり前ではなかったこと、
失った時に初めてそれを知る。
だからこそ今この瞬間に生かされているという奇跡に感謝して生きていかなければなりませんね。
今日の詩もとても良かったです。
そちらにコメントしようかと思ったのですが、
らいむぎさんが「何か誰かに届く言葉があるといいな」と書かれた言葉。
それがこうして届いてまたもしかすると月日が経って、この場所に誰かが訪れ何か感じて。
そんな繋がりや想いが続くと良いなと思い、
ここに記しておこうと思います。
記録そして記憶。