蜜柑の皮
夜咄 頼麦 作
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この文章の著作権は夜咄頼麦に帰属しますが、朗読についての著作使用権は解放しております。YouTubeでの朗読、声劇、そのほか音声表現活動などで自由にお使いください。
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おばあさんは目を覚ましたあと、しばらくぼんやりとしていました。目の前には、見たことのない単調な天井が広がっています。等間隔に並んだ黒い穴がだんだんはっきりとしてきました。
「ここは…」
少し頭を持ち上げると、左半身に痛みを感じました。全身の節々が、何かで打ちつけたように熱を持っています。しかし、不思議と身体の右半分には痛みを感じませんでした。いえ、正確に申しますと、感覚がありませんでした。
「動かない!どうして…」
おばあさんには、ここしばらくの記憶がありませんでした。綺麗に整った真っ白なシーツ、開いた窓から差し込む昼時の日差し、たたんで椅子の上に置かれた部屋着。あたりの様子から察するに、どうやらここは病室のようです。
「お目覚めになられましたか。よかった」
突然、左の方から声がしました。見ると、廊下側の扉から眼鏡をかけた若い男性がのぞいています。男性は白衣をなびかせて、こちらにやってまいりました。どうやら、この病院の先生のようです。
「お加減はいかがですか」
「ええと…身体の右側が動きませんで…どこかを悪くしてしまったのでしょうか」
先生は何かを言おうとして言い淀みました。眼鏡をかけた目の下には大きな隈をつくっております。先生は、慎重に言葉を選びながら話し始めました。
「昨晩こちらに搬送されまして、一般病棟にお預かりしました。全身に打撲症状が出ており、脈も不揃いでしたので、夜通し経過を観察しました。お孫さんの話では、夜中に家の庭で脚立から落下なさったそうです。右半身が動かないのは一時的なものと思われますが、暫く当院でのリハビリは必要だと思われます」
「そうでしたか…それはお世話様でした」
おばあさんは高校生の孫、健太と二人暮らしをしておりました。徐々に昨晩のことが思い出されます。おじいさんへのお供えものを採ろうと、庭に植わっている蜜柑の木に向かったこと。実の位置が高く、健太に脚立を持ってきてもらったこと。脚立の上から手を伸ばしても、なかなか手が届かなかったこと。その先のことは、覚えておりませんでした。
「暫くおじいさんに寂しい思いをさせてしまうわね。それに、この状態では蜜柑の皮もむけないもの」
おばあさんは意気消沈し、肩を落としました。蜜柑の木はおじいさんと一緒に植えたものです。おじいさんもおばあさんも蜜柑が大好きでしたから、初めて実がなった時は大喜びしたものでした。ですから、おじいさんが亡くなっても、欠かさず毎日蜜柑をお供えしていたのです。それが途切れるとなると、おじいさんも心配してしまうでしょう。落ち込んでいるおばあさんに、先生が優しく声をかけました。
「一日でも早く帰れるように私たちも支えます。どうか、悲観なさらないでください。今、お孫さんをお呼びします」
先生が部屋をあとにして少し時間が経つと、孫の健太が入ってきました。
「ばあちゃん!」
健太は、右手に袋を提げています。今は昼時ですから、本来ならばここには居られないはずでした。
「健太、あんた学校はどうしたね」
「ばあちゃんが心配だから今日は休んだよ。これ、お蜜柑。ばあちゃんの好きな、出臍の実を選んできたよ。じいちゃんには代わりにお供えしてきたから大丈夫」
健太が袋から取り出したのは、少し葉のついた、庭の蜜柑でした。小ぶりですが、よく熟れています。鮮やかで柔らかな果実は、純白のシーツの上で一層瑞々しく映りました。
「今、むいてあげるからね」
健太が徐に蜜柑をむき始めました。右手の親指を押し込み、皮を丁寧に開いていきます。昔はおじいさんと一緒に縁側に座って、まだ小さかった健太に、採れたての蜜柑をむいてあげたものでした。その時分には、いずれ自分が孫に皮をむいてもらう時が来ることなど想像もしておりませんでした。おばあさんは孫の成長に目を細めました。
「はい、どうぞ」
差し出された実の半分を左手で受け取ります。薄皮がたっぷりと張り付いておりますが、構いません。一口、二口と頬張りますと、それは甘い命の水を運んでくれました。いつしか、おばあさんの頬には、涙が伝っていました。
「ありがとう、ありがとうね。わたし、頑張るからね」
元気をもらったおばあさんは、気を強く持ちました。日々、右半身の回復訓練に努め、その甲斐あって、ひと月で無事に退院を果たすことができました。
「本当にお世話になりました。おかげさまでございました」
病院から出たおばあさんは、見えなくなるまで何度も何度も振り返っては、頭を下げておりました。
おばあさんの退院から数日後、病院に爽やかな香りの箱が届きました。先生は箱の中から蜜柑を取り出し、おばあさんの顔を思い浮かべました。きっと今頃、どこかの縁側で日向に当たり、家族みんなで蜜柑を食べていることでしょう。
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高校生なら気恥ずかしさもあるでしょうに。
健太のように優しい孫をもっておばあさんも亡くなったおじいさんも本当に嬉しいでしょうね。
故人の好きだったものをお供えする気持ち。
人は亡くなった後も残された人達の心の中に残り存在しているのですね。
若き頃に姫林檎の木を贈って大切にしていてくれた亡くなった祖父を思い出します。
頼まれずともお蜜柑をお供えすることの出来る心。
現実世界もこんな優しい世界でありますように。