月明かりの麦酒
夜咄 頼麦 作
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もくじ
乗船
「553…552…551号室…あった」
乗船時に受付で渡されたカードキーをかざすと、解錠されたらしい音がした。
同時に、出航の合図であろう、汽笛が鳴り響く。
不慣れなため、ギリギリの乗船になってしまったが、間に合ってしまえばこっちのものだ。
扉を押して部屋に入ると、手前に一切のシワもなく整えられたベッドが二つ並んでおり、奥の方に小綺麗な和室コーナーが見えた。
選ぼうと思えばロイヤルスイートだって選べたところを、少しだけ遠慮をして、和洋室なる一等客室を選んだのだが、思ったよりのんびりとくつろげそうじゃないか。
「おい、どっちのベッドがいい?」
私は、備えに備えを重ねたパンパンのリュックを肩から外しながら、後ろに立つ長男を振り返った。
この歳での初めての船旅に、柄にもなく心が躍っている父親とは対照的に、部屋に入っても、なんとも冴えない表情だ。
この客室にたどり着くまでだって、船内の想像以上の豪華さに驚くばかりだったのだが、息子は常に浮かない表情をしていた。
いつの間に、こんなに無愛想な男に育ってしまったのだろう。
「ん。」
息子が気怠げに手前のベッドを指さしたので、私は「よし。」と一言返して、奥のベッドに荷物をおろした。
ベッドに体重を預けてみると、なんだか身体の沈み方に違和感があった。
そういえば、乗船直後から身体の平衡を保てない感覚があったのだった。
船全体が、大きく左右に揺られているため、床は常に水平ではない。
これだけ大きなクルーズ船とは言え、海に浮かんでいるのだから仕方がないだろう。
一度は船内の美しい光景で紛らわされていた気持ちの悪さが、ここにきて一気に襲ってくる。
「もう、船の揺れには慣れたか?」
そう尋ねると、息子は斜めがけのショルダーバッグからイヤホンを取り出しながら、軽く頷いた。
そしてそのまま、流れるような手つきで、手元の端末を操作したのち、耳を塞いで黙り込んでしまった。
何やら弦楽器の音が漏れている。
息子なりに、この船の世界観に浸ろうとしているのだろう。
そうして室内に気まずい空気が流れるうちに、だんだんと気分が悪くなってきた。
このままにしておくと、本格的に船酔いをしてしまいそうだ。
荷物も置けたことだし、外の空気でも吸ってこよう。
「父さん、ちょっとデッキに行こうと思うが、一緒に来るか?」
反応はない。
聞こえてはいるのだろうが、態度から、部屋に残りたいことだけは重々伝わってきた。
「じゃあ、荷物を頼んだぞ。キーはここに置いとくからな」
腕で目を覆ってしまった長男を尻目に、私は重い空気の客室を出た。
デッキ
エレベーターを降りてホールを見渡すと、デッキに出られそうな鉄製の扉が目に入った。
丸い覗き窓が、だいだい色に染まった空を切り取っている。
ノブに手をかけ、ドアを開いた途端、潮の香りを含んだ強い風が全身を襲った。
なるほど「開放厳禁」にするわけだ。
やっとの思いでドアを閉めると、眼前には夕暮れに染まった海が広がっていた。
部屋で気まずい時間を過ごしているうちに、船は随分と沖まで出てきたらしく、目の前にあった白い手すりから、少し身を乗り出して後方に目をやっても、元きた港は確認できなかった。
デッキは、どうやらクルーズ船の最後尾まで続いているらしく、既に何人かの先客が見られた。
少し先の、影から出たあたりのところに、西日に照らされた子連れの母親が見られる。
お子さんたちは、まだ小学生から中学生といったところで、1、2…3人だろうか。
思い思いに好奇心を発揮し、楽しそうな声をあげている。
少し眺めただけで、円満で幸せなご家庭であることが伺えた。
うちの家にも、あんな時期があったのだが。
目を細め、さらに船の後方に目を凝らすと、白いリクライニングチェアが並ぶ中に、ひと組のカップルと、最後尾の手前で、手すりにもたれて本を読む青年が見えた。
それぞれが、思い思いの幸せに浸っているようだ。
比べる必要などないのだが、こうして幸せそうな人々を眺めていると、自分だけが不幸なのではないか?などと考えてしまう。
昔からの悪い癖だ。
今回の船旅は、突然決まったものだった。
2月に入り、会社で上がってきた月初の経理処理の確認作業を乗り越えたところで、取引先から、月末に予定されていた、案件のキャンセルが言い渡された。
近年はライバル企業も成績を伸ばしてきており、比較検討の上で、今回の案件からは外されてしまったのだろう。
取引先から見れば下請け、外注先でしかない我々には替えが効いてしまう。
金銭的な補助が出るとはいえ、急な変更には気持ちがついていかない。
年末から準備を進めてきた、まさに社運をかけたプロジェクトそのものが無くなってしまったため、やることがなくなり、心にもぽっかりと穴が空いてしまった。
そこで、部下のすすめもあり、溜まりに溜まった有給を消化することにしたわけだ。
休みを取ったはいいが、この数ヶ月ろくに帰りもせず、家族サービスもできていなかった家には居づらいものがあった。
リビングにいても、なんとも手持ち無沙汰になってしまうので、
自室にこもって、もはや癖と言ってもいいメールチェックをしていたところに、一通の招待状が届いたのだ。
「ナイトクルーズへのご招待…ねむり屋?」
知らない送り主からのメールは、いつもならば自動的に迷惑メールフォルダに入るはずなのだが、そのメールだけは「重要」の欄に振り分けられていた。
特に説明はなかったのだが、貼り付けられていたフォームから客室のグレードを選ぶと、数分後には同じ送り主から2枚の乗船チケットが届いていた。
このまま画面を見せれば乗船できるらしい。
チケットが2枚ということだから、誰かを誘えということだろうか。
どうせ浮いた休暇なのだから、のんびりクルーズに乗るというのも悪くない。
何より、私は長い時間を過ごす豪華客船といったものに縁のない生活をしてきた。
長男
うちは父、母、長男、長女、15歳の老猫の5人家族で、話した通りのぎくしゃくした状況だったため、誘っても誰も来ないかと思っていた。
しかし、たまたま春休みに入っていた長男が珍しく手を上げ、二人でこの、不思議なクルーズ船に乗り込んだわけだ。
場合によっては、送り主のねむり屋さんとやらに、多少図々しいかもしれないが、家族全員分の乗船チケットをもらえないか交渉するつもりだったのだが、
まだ受験で忙しい娘と、猫の世話をするという妻は家に残ると言った。
こうなることまで見越しての2枚だったとしたら恐ろしい。
ぎくしゃくしているとは言ったが、長年連れ添った妻と、よく話し相手になってくれる娘とは、まだうまくいっている方だ。
問題は長男。
幼い頃はお調子者で、かわいいものだったのだが、自分が会社での昇進とともに忙しくなり、思春期以降、まともに口を聞いてくれなくなってしまった。
週末すら、自室にこもって仕事をしている私だ、どう接すればいいのかわからなくなるのも当然だろう。
多感な反抗期特有の反感を、成長するままに持ち上がってしまったのだろうか。
寡黙な性格に仕上がった上、バイトして購入したのであろうワイヤレスのイヤホンで耳を塞がれては、会話から心を解きほぐす糸口すら見えない。
そんな落ち着かない家庭事情に仕事までうまくいかないときたもんだ。
床につくと嫌でも考え事をしてしまうため、私は、めっきり不眠症になってしまっていた。
そんなことを考えて海風にあたっていたら、随分と船酔いはマシになってきたらしい。
寝不足による眠気もあることだし、このまま客室に帰って一休みしようかとも考えたが、先刻の気まずい時間を思い出し、もう少し船内を歩くことにした。
コスモス
全く、こんなに広いだなんて思わなかった。
今の時代にはやりすぎではないかと思うくらい、煌びやかに装飾された内装は、もはや幻想的と言っても過言ではない。
ホールに常設された小高いステージには、なんともご立派なグランドピアノが設られている。
よくは知らないが、きっとヤマハのグランドピアノだろう。そうに違いない。
壁に水平に並んだ窓の外は、もうすっかり日が暮れてしまっている。
壁沿いにはズラリと、ふかふかで座り心地の良さそうな椅子が並んでおり、乗客同士がお互いに心地よい距離感で座っている。
おそらく一緒に乗船したのであろう、奥様方が井戸端会議を開いていたり、ご年配の紳士が新聞を広げたまま、うつらうつらしていたりする。
船内にうっすら流れているクラシック音楽に、眠くなってしまったのだろうか。
奥に通路が見えたので、そちらに歩を進めると、少し照明の落とされたプロムナードにたどり着いた。
壁際には自動販売機が4台並んでおり、アルコール類も販売している。
最近は、日々の疲れや悩みを忘れるために、お酒を飲むことばかりのため、お酒を見るだけで気分が沈んでしまう。
今は見ないようにしよう。
窓際にはやはり、ふかふかの椅子が並んでいるが、先程のホールとは並べ方が違うようだ。
一脚一脚が窓を向いており、一人で過ごすことを想定されているらしい。
まったく、上手い仕掛けだ。
その仕掛けのおかげか、こちらの席は大人気のようで、等間隔に一席ずつ開けて、乗客が並んでいた。
茫洋とした海原を見つめるご婦人、何やらボソボソと、A4の冊子を見つめてつぶやく少女、本を読むハットの青年。
この青年は、さっきもデッキの後方に見かけた気がするが、気のせいだろうか。
間に座るのもなんだか気が引けてしまい、そのままに歩いていたら、ついに一番奥までつき当たってしまった。
遠くからは行き止まりかに思えたが、近くでよく見ると、何やら不思議な雰囲気をまとった扉がある。
あまり船内でこれまで見かけなかった、木目調の扉で、一見地味だが、それでいて外枠に沿ったささやかな金の花模様が美しい。
釘打ちの小さなプレートがかかっており、ラウンジ『コスモス』と書かれている。
なんだか呼ばれているような気がして、思い切って中に入ってみることにした。
扉を開けると、そこは風除室のような小部屋で、左側に黒いカーテンがかかっている。
このカーテンの向こうがラウンジなのだろうか。
少し躊躇をしていると、ひとりでにカーテンが開いた。
入ってもいいのだろうか。
勇気を出して足を踏み入れると、そこは真っ暗だったが、暗闇になれてくると様子がわかってきた。
まず目を引く、うっすら照らされたステージ上、下手側のピアノ。
ホールにあったものほどではないが、こちらも上等なグランドピアノだ。
天井付近にいくつかの照明器具がぶら下がっているところを見ても、どうやらここは、小さな劇場のようだ。
手前には臙脂色のゆったりとした客席が2席だけ。
奥側の席には、すでに誰かが座っているらしい。
近づいてみると、座っていたのは見知った顔だった。
長男だ。
驚いて身体が固まってしまっていたのだろう、息子は軽く会釈をして「座ったら?」と促した。
私は完全に空気に飲まれてしまい、そのまま席に腰を下ろした。
思っていた通り、なんとも座り心地の良い椅子だ。
座っているだけで、頭に渦巻いていた悩みがスーッと身体の下まで沈み込んで、溶けていくように感じる。
私が席に着くのを待っていたかのように照明が徐々に落ちていき、気がつくとステージには演者が座っていた。
そうして、一呼吸の間のあと、演奏が始まった。
想い
なんと優しい音色だろうか。心の内側まで、すっと沁み入ってくるようだ。
気がつくと、頬を涙が伝っていた。
仕事に家庭に、何事もうまくいかず、この歳にして精神を病んでいた。
しかしこの音楽は、この船は、そんな私をも、悩みごと包んで、許してくれるというのだ。
ただ、家族を支えることで頭がいっぱいだった。子供たちを立派に育て上げるまでは身を捧げて働こうと、繰り返す日々に必死だった。
いつしか、働くことが、昇進することが目的になってしまっていた。
でも、本当は、
私は、本当は、家族の笑顔が見たかっただけなんだ。
そこにある幸せを、守りたかっただけなんだ。
ふと隣をみると、長男の頬にも涙が伝っていた。
顎から滴るほど泣いているというのに、拭うこともせずにステージを見つめている。
私の視線に気づいたのか、息子はこちらを向いた。
そして、微笑んで言った。
「父さん、ありがとう」
その一言は、私を救うには十分だった。
麦酒
「553…552…551号室…あった」
息子に渡されたカードキーをかざすと、解錠されたらしい音がした。
プロムナードの自販機に売っていた、キンキンに冷えた瓶ビールを2本持って、奥の和室スペースに座り込む。
後ろからついてきた長男も、ローテーブルの向かいに腰を下ろす。
もはや、乗船時に感じられた重苦しい空気はどこにもない。
この夜は、息子と二人だけの、男同士、水入らずの時間を過ごそうじゃないか。
「乾杯!」
窓から差し込んだ月明かりが、仲良く並んだ空のビール瓶を照らしている。
長男は、ひとしきり語り合った後、酔い潰れて寝てしまった。
まだ、酒との上手い付き合い方を知らないのだろう。
あいつと、こんな風に話ができたのは初めてだった。
全てはどうやら、このクルーズ船の持つ不思議な力によるらしい。
ひょんなことから乗船したものだったが、今となっては、本当に勇気を出して良かったと思う。
そんなことを考えていると、さすがに眠くなってきた。
今日は久々に、気持ちよく眠ることができそうだ。
私は座布団から立ち上がり、少しシワのついたベッドに入った。
目を閉じると、あっという間に身体から力が抜けていく。
そうして私は、幸せな眠りについた。
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