学校で学ぶ
学校で学ぶとは、どういう事なのだろうか。
僕は大学を休学している身だ。
休学2年目も後半に差し掛かろうとしている。
この間、僕の考え、行動に移していたことはこうだ。
自分の好きなことを探し、人生に余白を与える。
新しい仕事、声優養成所入所、台湾への一人旅、配信での出逢い、恋愛。
あくまで、”学生”としてこれらに対峙してきたのである。
この一年半の挑戦は、これまで一直線にレールの上を走っていた人生に余白を与えてくれた。
うちの大学は休学中にお金を払う必要が無いので、この間は実質タダで”身分”を提供していただいている。
学校で学ぶとは、どういう事なのだろうか。
僕は大学の施設を利用していない。
しかし、”学生である”という免罪符を持つことによって、社会と一定の距離を保ちつつ、その意識は変革され、学ぶ姿勢が保たれる。
不思議なものだ。
どうか、学校というシステム上に乗っている人、これから乗ろうとしている人には少し考えてみてほしい。
学校はどこにあるのだろうか。
学校で学ぶとは、どういう事なのだろうか。
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大学にとって、あなたという人間ー学生というあなたという人間ーが必要なのかと思ってみたことがありますか?ちょっと考えてほしい。
あなたが大学側から受けとったものは、合格通知と入学金支払の為替用紙と、授業料催促の手紙だけだったろう。そしてあなたは、立命館大学の学生であるという学生証をもらった。そしてあなたは、四カ年の時間をかけて受講登録、試験……とやって100という単位を勝ち得て(?)晴れて卒業することだろう。そしてあなたはこの「自由なる」「平和なる」学園を去る。大学(側)にとって、あなたはそれだけのことに過ぎないのだ。卒業名簿の中にあるあなたの名前など、大学側にとっては授業料の領収書の意味しかないのだ。
ところでその授業料だが、あなたはそれを払うことによって、清心館に入り、教師の顔を見、このキャンパスを歩き、図書館に入ることができる。さらに女の子と話し、友達と語り合う。授業料を払うことによってあなたは、図書館の本を読み清心館の大教室でいねむりできるという、あなたの生活の免罪符を得ている。だが、もうちょっと考えてほしい。
口をパクパクとあけている教師に金をやっているのは誰なのか。彼の生活を保証しているのは誰なのか。事務室の窓口でウサンくさそうに応対している職員の給料を払っているのは誰なのかと。そして学問とやらをやっている研究者の研究とは、あなたにとって何なのか。教室でろうろうとしゃべる教師があなたにとっては何の意味もなさないように、彼らのやっている学問とは生きている人間ー河原町で靴磨きをしているおじさん、朝早く道路を掃除しているおばさんたちにとって何の意味もなしていないものなのだ。かえって彼らを圧迫しているものだということを考えてみたことがありますか。
あなたは、授業料を払って学生証をもらい、講義を受けていることについてなんとも思わないのだろうか。あなたが本当に生きようとする人間ならばSiとは断じていえない筈だと、私は思うのだが。
この”平和なる””自由なる”キャンパスにおいて、あなたは何をしようとするのだろうか。
高野悦子『二十歳の原点』
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学校で教えています。
学んでほしいこと、色々あります。
でも、何を学ぶかは人それぞれ。
時間が経ってから学びになることもある。
教えるのは、たのしくて、むずかしくて、終わりがないです。
私も教員をしていました。授業のための準備は終わりがなくて、あれもこれも教えなくてはいけないと思って必死に勉強して伝えてました。
でも残っているものは、、
いろいろなことを感じてくれたら
それでいいでいいと思うようになりました
教えることは
そんなに多くない
伝わるのは感情です